阪神・淡路大震災で自らも被災 冷たい政治なんとしても変えたいと決意


 高校では、当初、国語教師になりたいと思っていましたが、民青同盟で科学的社会主義を学ぶなかで、哲学への興味が高まり、哲学科を選びました。
002.jpg 神戸大学に入学すると、「教養部改革」のまっただなか。学問の幅広い基礎を学ぷ教養部が廃止されるばかりか、「二年生は分散するキャンパス間の移動を強いられます。そのため昼休みを半分以上短縮する案もだされました。

 しかし、学生には「改革」の内容は知らされていませんでした。学生自治会活動に参加した堀内さんたちは、学生無視は許せないと、その内容をビラなどで学生に知らせました。

 教養部廃止は強行されましたが、昼休みの短縮は撤回させました。



 大学卒業を目の前にした95年1目17日、阪神・淡路大震災が起こりました。堀内さんの下宿は灘区でした。カギが壊れたドアを蹴破って外に出てみると、ガス臭がし、あちこちで水道が破裂。いたるところで助けを呼ぷ声が聞こえました。一階が押しつぶされた木造アパートに3人の学生と大家さんが埋まっていると聞き、天井をはがして、どうにか全員救出するなど、救援に走り回りました。

 4日後の21日、屈円さんは文学部学生自治会長として大学当局に要請書を提出---学生の安否確認を急ぐこと、被災学生の学費減免・免除、入試日程の変更を求めました。

 しかし、大学当局は「こっちが心配しているのに学生が連絡してこない」など消極的な態度。

 個人補償を否定する首相や、被災者がまだ避難所で寒さにふるえているのに早くも空港建設を唱えた神戸市長など政治の現実への怒りがこみ上げてきました。

 卒業後、日本共産党専従になることは震災前からきめていたのですが、大震災の経験は「政治をなんとしても変えなくては」という堀内さんの決意をいっそう強くしました。(つづく)

《「兵庫民報」連載記事より》


写真:堀内さん(写真中央)の活動を紹介する当時(95年)の「しんぶん赤旗」