堀内照文さんってどんな人? 生い立ちや人柄を紹介します(「兵庫民報」掲載記事。4回連載)。

日本共産党の歴史と展望 お父さんから聞いて育った


 堀内さんが育ったのは、大阪市南部。路面電車がいまも走る歴史の古いまちです。1972年、日本共産党地区委員会常任活動家の父照道さんと小さな出版デザイン事務所で働く母晶子さんの長男として、お母さんの実家のすぐ前・天王寺の日赤病院で産声を上げました。「照文」という名前は、お祖母さんの知り合いのお坊さんが、お父さんの名前から一字とって付けてくれました。
%E7%94%BB%E5%83%8F1.jpg 堀内さんと弟の敏光さん、両親の四人家族は、照文さんが小学校二年の二学期まで住吉区で暮らしていました。お父さんはよく晩酌をしながら息子たちを前に座らせ、地球儀をみせては「ここが社会主義の国だ」とか、日本共産党がどういう政党なのかとか、戦前の歴史などを語って聞かせていました。「酔っ払ってろれつもまわらない話に、どれぐらい興味を持ってくれてたのでしょうね」と晶子さんは笑います。

 その後、阿倍野区の阪堺電車東天下茶屋駅近くに引っ越してきました。陰陽師として有名な安倍晴明をまつる神社のすぐそばです。

 小学校三年の夏休みまではクラスで一番忘れ物が多い子どもでした。この年は、二学期がはじまってから、先生に注意されたのか、家族が寝てしまったあと夜遅くまで、一人で一生懸命に自由研究を仕上げていました。「やるときはがんばるんだ」とお母さんにはじめて思わせたこの事件を機に、堀内さんは変わります。「授業中の目が違いますよ」と担任の先生も報告してくれました。忘れ物もすっかりなくなりました。

 学童保育ではこま回し・竹馬を得意とし、ドッジボール、草野球などたっぷり遊びました。指導員からは「この子は大物になる」と太鼓判をもらいました。

 学年が進むとお城に興味をもち、お祖父さんやおばさんにせがんで姫路、明石、岸和田、さらには松本まで見に連れていってもらうほど熱中しました。

 このころ、バレンタインデーにはチョコレートを七、八個ももらっていたそうです。(つづく)

《「兵庫民報」連載記事より》


写真:生まれて2回目のお正月を両親に囲まれ迎えた堀内さん