10月8日に、宮本百合子を語る兵庫のつどいで、「若い世代がいま、百合子から何を学ぶのか」と題しておこなったあいさつの大要を掲載します。
若い世代がいま、百合子から何を学ぶのか



 いま、小泉前首相による靖国参拝、安倍首相の歴史認識が問題となっているだけに、あの戦争をどうとらえるかというの問題を、いまの課題と重ねて、そしてまた、青年の生き方と重ねて考えてみたいと思います。


 「モダン猿蟹合戦」という1932年の百合子の評論のなかに、なかなか興味深い一節があります。この前年に満州事変がおこり、日本が中国東北部への侵略を開始していたときで、「満蒙は日本の生命線」と盛んにいわれているさなかでした。あるデパートで特別展示がおこなわれ、この一連の事態を「猿蟹合戦」に例えられていたところ、それをみていた小学生の女の子が、
「満州をとっちゃうと、もっと金や何かとれて得するねェ」というと、一緒に見ていた若い学生が、さすがに決まり悪そうな小声で、
「とるんじゃないよ」といった。すると女の子は、
「じゃ借りるの?」
「――さア、何ていうのか――」。学生さんは、うまく説明がつかないでそのまま黙ってしまった、というわけです。

 女の子が思わず「とる」といったように、明白な侵略だというこの戦争の本質が、このやりとりのなかに明確に示されているし、それをごまかそうとするがごまかしきれない大人の論理、つまり当時の社会での常識的な建前となっていたであろう、ときの政府の立場の弱さが示されているように思います。


 しかし、こうしてすすめられた日本の侵略戦争は、アジアと日本に大変な惨禍をもたらしていきました。
 この戦争が終わった瞬間を描いたあまりにも有名な一節が播州平野にあります。
 「そのときになってひろ子は、周囲の寂寞におどろいた。大気は八月の真昼の炎暑に燃え、耕地も山も無限の熱気につつまれている。が、村じゅうは、物音一つしなかった。寂として声なし。全身に、ひろ子はそれを感じた。八月十五日の正午から午後一時まで、日本じゅうが、森閑として声をのんでいる間に、歴史はその巨大な頁を音なくめくったのであった」。

 この歴史の瞬間について百合子は、「個人の生活にも苦しかったひどい歴史の悶絶の瞬間」と評していますが、この瞬間のほんの直前まで“聖戦”、“神州不滅”などと信じ込まされ、戦争に動員させられ、家族や友人を戦地で失い、また空襲にも苦しめられた多くの日本人の、なんとも言えない虚脱感や安堵感の入り混じったような、そんな状況が見事に描かれているように思います。
 私たち若い世代からすると、決して直接体験することができない歴史です。しかし私は、最初にこの一節を読んだとき、あたかも自分がその瞬間に居合わせているかのような思いにとらわれ、非常に圧倒されたのをよく覚えています。

 こうした国民的体験があったからこそ、「もう二度と戦争はしない」と誓った憲法が生まれたんだと、その重みを痛感します。


 青年の生き方とのかかわりで見過ごせないのは、この戦争を正当化する靖国史観派が、若い生命を無残にも散らしていった特攻隊を英雄的にあつかっている問題です。たしかに当時の若者のなかには、純粋に、国を守るため、故郷や家族、愛する人を守るためにと、命を捨てた人もいました。しかし、靖国史観派がするように、これを英雄視し、「この犠牲があったから、いまがある」「だから英霊の武勲を顕彰するのは当然だ」と合理化することが、果たしてその犠牲への正しい評価なのでしょうか。

 この問題での百合子の視点は、非常に鋭いものがあります。「青年の生きる道」(1946年)という戦後 の評論のなかで百合子は、「世界が驚きの眼をみはって眺めたものの一つに特攻隊というものがある。特攻隊に参加した若い人の精神の中には、その人々自身にとってそれぞれ真面目な、情熱を傾けた思いがあったろう」――当時の若者の思いに、気持ちを寄せながらなお、次のように続けます。

 「けれども客観的にみればこれは日本の近代的重工業の生産力が全く立ち遅れている苦境を、若く、一つの情熱によって命を捨て得る青年の生命によって埋めて行こうとした軍事的手段であった」――この犠牲の本質が、このようにずばり解明されています。そして、続けて、「突然、自分の生活の道を変更させられ、何年間か一貫した目的を以っていそしんでいた学業や仕事を放擲させられ、一つの鍋の中に打ち込まれた豆のように煮詰められた。そういう避けることの出来ない事情におかれた若い人々にとって最も致命的であった点は、ただ外に現れた生活の道が強い権力によってへし曲げられたということばかりではなかったと思う。本人達にとって決して自然に受けとれない、納得出来ないそれ等の生活の経験に対して、自分の疑問、自分の探究心、自身の結論を導き出すことを全く許さなかった日本の権力の、非人間的な圧力というものこそ、数百万の青年が今日において昨日を顧みた時、口惜しく思う点があろうと思う」、「日本の旧い権力は自分の権力を守ることこそ大切であったが、一人一人の若者の青春が、わずか十六、七歳で、或いは二十歳で、或いは二十五歳で打ち砕かれて行くことをしんからいとおしまなかった。同じ死せるにしても、人間の威厳を自覚させて死なせようとさえもしなかった。支配者達は、青年の生を踏み躙ったと同じように死をも侮辱した」と、特攻隊による死が何ら英雄視できるものではなく、若者の生ばかりか死をも侮辱したものであることが明確に語られています。百合子が別の評論でもはっきりと述べているように、「戦時中、日本の青春は、根底からふみにじられた。権力が行ったすべての悪行のうち最も若き人々に対してあやまるべき点は、若い人間の宝であるその人々の人間的真実を愚弄したこと」であり、「活々として初々しい理性の発芽を、いきなり霜枯れさせた点」なのです。(「信義について」1946年)
 私には、現在の靖国史観派は、いまなお、この若者たちの死を侮辱しつづけているとしか思えません。


 では、こういうなかにあっては私たちはどうあるべきなのでしょうか。戦前の百合子の評論には、大変示唆的な言葉が多くちりばめられています。


 戦時中の生活の不便さから何かと列をつくることが多くなった、そのことを深くとらえた「列のこころ」(1940年)という評論は、最後に、「これから、時代は益々列をつくる方向に向かっていると云えるだろう。一つの国の人間が先ず列をつくることを教えられ、やがて自分たちで列をつくるようになり、追々自分たちの生活の実際の向上のために列を組むように成長してゆく過程は、実に多岐であり波瀾重畳であると思う。ひとくちに人の列と云えばそれまでだが、列をなす一人一人に二つの眼と口と心と生涯とがあるのだと思えば、おそろしき偉観と思えるのである」としめくくられています。ここでは、日常の生活上ぶつかっている問題から、その生活向上をめざして人々が団結していく展望が力強く明らかにされており、百合子の変革の事業への確固たる確信と、その担い手である社会の多数者への深い信頼がつづられていると思います。


 そうであるからこそ、百合子の言葉には、一人ひとりの生き方への激励があり、どうあるべきかの示唆も多く含まれていると思います。「若き時代の道」という別の評論では、「明日の歴史を書きつつあるものこそは、今日の生きてであり、その生き方の実質は、歴史の内容を変えるのである。歴史はよそを流れているのではない。今このように矛盾相克の摩擦に苦しみつつ行われている目にも立たない努力の裡にこそ歴史は脈々として流れ進んでいる」、「青春と、その内容と、その内容に対する青年の自覚は、歴史の五十年間を決する社会的大事実なのである。人間はこの世に一度しか生きない。その一度の生命は最も人類的に、最も謙遜なる確乎不抜さで人間的に生き抜かれなければならないのである」と、一人ひとりの生き方が歴史をつくるのであり、とりわけ青年の自覚されたそれは、歴史の50年を決するとまで述べています。

 自覚した生き方を選んだものとして、百合子の言葉を胸に刻んで奮闘したいと思います。