日曜日は、神戸で4月末に亡くなった浦井洋元衆議院議員のお別れ会がとりおこなわれ、参列しました。
 私は、大島理森衆議院議長の弔詞を代読しました。
 浦井さんは、神戸大学医学部の前進、兵庫県立神戸医科大学を卒業し、神戸の下町で貧しい人たちのための医療へと献身、いまの神戸医療生協の、板宿クリニック(当時板宿診療所)や神戸協同病院(当時神戸協同診療所)などで勤務した後、神戸健康共和会、東神戸病院の設立へとつながる、東神戸診療所や生田診療所を設立、兵庫県民主医療機関連合会や兵庫県保険医協会(当初は保険医クラブ)の設立にも尽力するなど、戦後の民主的な医療運動の草創期を支えました。
 1969年、神戸市長選挙立候補に続く、師走の総選挙で42歳にして衆議院議員に初当選。以後7期20年にわたって、躍進した新たな議員団の一員として、この分野でも歴史をひらくたたかいの先頭に立ちました。この時の活躍は、不破哲三さんの弔電でも紹介されました。

 議員引退後も、健康共和会の理事長を務め、阪神・淡路大震災の際にも奮闘されました。

 お別れ会では、晩年の浦井さんの講演やのインタビューなども紹介されましたが、いつまでも命の平等を貫いてほしいとの民医連医療への期待が語られるなど、最後まで情熱の人でした。

 私は、浦井さんが失った、神戸からの共産党国会議員ということでは、まさに後継者となります。しかも、初当選が師走の選挙で42歳というところも同じ、所属が社会労働委員会だったことも、いまの私が所属する厚生労働委員会へとつながる委員会であり、歴史のバトンを受け継ぐ重みを実感しました。

 以下は、同会へ私が送ったメッセージです。

浦井洋先生の御遺志を受け継いで

 私が浦井先生をはじめて目にしたのは、1993年の総選挙でした。浦井先生の後継候補として増田紘さんが立たれた選挙での決起集会か何かでした。「目にした」というのは、私は当時、神戸大学の学生で、一党員として集会に参加していたというもので、先生が私の存在を認識し「出会った」と呼べるようなものではないからです。その集会で、増田さん必勝へ、大変、気迫のこもった訴えをされていたことが印象的でした。
 浦井先生の議席を失ってからおよそ25年後、私は多くの皆さんのご支援で比例代表近畿ブロックから衆議院へ送っていただきました。浦井先生以来の、神戸出身の共産党国会議員としての重責を痛感する日々です。
 浦井先生は1969年の初当選から7期もの長きにわたって衆議院議員を務められ、その業績は計り知れません。いま衆議院の、私が所属する厚生労働委員会では、派遣法改悪の審議の真っ最中でまさに与野党が激しくぶつかり合っています。労働者供給事業と中間搾取を禁止した戦後の労働法制の原則を破り、そもそもこの派遣労働を認めることになったのが、1985年の派遣法の制定でした。その時、衆議院の社会労働委員会で労働者の権利を守るべく論陣を張っていたのが浦井先生でした(ちなみに参議院の社会労働委員会では安武洋子さんが活躍)。
 浦井先生が残した足跡からみれば、私のとりくみなどまだ始まったばかりで、また時が経ってもとても足元にも及ぶものではありませんが、先生の御遺志を受け継ぎ、奮闘することを先生の御霊前にお誓いするものです。

2015年5月31日 日本共産党 衆議院議員 堀内照文